2012/08/27

そして日本人は黄昏へ向かう。

電車内のベビーカー利用に賛否両論(はぅわ!)

賛否両論という時点でおかしい。

否定、これしかない。

せっかくまとめへのリンクを貼っているので。

7:名無しさん@13周年:2012/08/26(日) 18:39:48.97 ID:9pcqihyW0
祭でベビーカーにぶつかられたけど母親は謝って来なかった 

8:名無しさん@13周年:2012/08/26(日) 18:39:49.90 ID:+gpOFvhs0
小さなカフェや定食屋にベビーカー軍団が押し掛けてたまないで
のさばってるもんね、 

36:名無しさん@13周年:2012/08/26(日) 18:44:12.12 ID:mJJbgUz80
賛があるんか
利用自体禁じろよ
お墨付きを得たとばかりに、混んでるのに空気読まずにグイグイ来る奴いるんだからよ 

まったくもってその通りで、要するに母親側がまともな人間でないから賛否両論になるのであって、子供を持つ親がまともな人間であれば「賛成のみ」になるはず。
道徳とモラルのあるきちんとした親には悪いけれども、そうでない親の方が多い。
社会全体で子供を育てる、などと意味不明なことを自治体や政府が言うものだから、まるで子供を育てていることがすべての悪行の免罪符になるかのような振る舞いをする親の多いこと多いこと。

社会が子供を育てるだなんてとんでもない。
こちらからしたら、「子供がいる?だから何?」

強制的に生ませているわけでも何でもない。
自由主義である。子供を生むのも生まないのも自由だ。
勝手に生んでおいて、社会全体で面倒みろとは傲岸不遜、厚顔無恥、図々しいにもほどがある。
好きで生んだのなら、最後まで好きに面倒みろ。少子化対策に積極的に参加しているだの何だの、そんなことは知ったことではない。

はっきり言えば、少子高齢化は生命にとって避けられない宿命であって、何をどう工夫しようと多子若齢化するなんてことはあり得ない。
年金がどうだ、社会保障がどうだ、と騒いでも意味はない。もうどうにもならないのだから。社会保障制度だけでなく、国家そのものが何十年か後には崩壊するしか道はなく、知恵の回る官僚が何とか足掻いてみたところで「日本」という国家崩壊のタイムリミットを先延ばしする程度の効果しかない。

悲観的?
そんなことはない。これでもかなり楽観的だと思う。

モラルや道徳というのは曖昧で、社会行動の規範もしくは基準にしようとすることが難しい。もちろん、過去の日本ではそれができていた訳だけれども、現代に至っては自我が社会規範に優先され、価値観が一様化し、政治的無 関心 気力が蔓延し、道徳が価値を持たなくなってしまっている状態である。
この状態では人と人、組織と組織、社会と社会の間の関係を調整する作用、つまり「政治」の規範・基準を道徳や倫理に求めることはできず、必然的に人間の社会的行動を取り締まるのは「法律」のみということになる。
恐らく日本人もなんとなくわかっているのだろう。法律関係の書籍や番組などがやけに増えているのはそのせいでもあると考えられる。「自分を守ってくれるのは、他者との関わりや血(地)のつながりなどではなく、法律だけだ」ということが。

形式的法治主義が末期的に進み、法の支配とはかけ離れた司法判断が続き、三権分立が名目だけとなっている日本の社会制度ではいたし方ない、そうなるべくして辿りついた末期であろう。

何が悪かったのだろうか。

ごくまっとうに考えれば、経済的な豊かさを追い求めた結果、数々の行政・立法・司法を含む社会的不備に目を瞑り、もしくは見ないふりをしてきた結果、「見えるもの」を重視し「見えないもの」を軽視する社会になってしまった、と言えるかも知れない。
物質であり、明文化された法であり、異性の容姿や年収であり、そういった「見えるもの」だけを重んじること。

卑近な例を挙げれば女性専用車両がどれだけ空いていても、またそれ以外の車両にどれだけ女性が乗ってきて混雑しようと、男性は女性専用車両に乗れない、ということだ。
車体に目立つ「女性専用車両」、これが見えるものとして絶大な効果を発揮しているため、実態に合った運用はされない。
せめて専用車両の前後1車両には女性が乗らなければ、混雑は平均化される。専用車両がガラガラな場合は男性も乗車できるようにすれば、体調の悪い男性が無理をして前後の混雑した車両に乗らなくても済む。
女性専用車両は法令で定められたものでないため、男性が乗車しても咎められることは(本来)ない。が、そのことを「明示」していないから実際には咎められる。

すべて「見えるもの」を基準にしている。
シルバーシートでもそうだが、そもそも痴漢をしなければ、老人に席を譲ることが当たり前であれば、そういった「見えない」モラルや道徳観念、倫理があれば見えるものを基準にする必要はない。

けれど、そうなってしまったのだ。
経済的繁栄と引き換えに精神を捨ててしまった日本は、「見えるもの」にしか判断と価値の基準を置くことができない国家に、「成り下がってしまった」。
このことを幾ら嘆いても無意味だ。そうなってしまったのだから。
対策を検討することにも価値はない。もうどうにもならないのだから。

よくSFなどの創作物では、文明の終着として精神だけになった人類というものが描かれるが、それはあり得ない。人間と動物を分けているのは「欲望の限度」であり、動物の欲は有限であるが人間の欲は無限である。故に、どれだけ物質に塗れようと、どれだけ生活が便利になろうと、人間が満足することはない。
つまり、精神だけの存在になんかなり得ない。

このまま進めば更に豊かな生活が待っている。後先考えない増税、それによる一時的な経済繁栄、働かなくとも保障される生活、被害者は保護されないが加害者は保護されるために犯し放題な犯罪、どれも考えることを放棄すれば薔薇色の未来だ。

そう、「考えなければ」だ。
そして今、考えない日本人が過半数を超えているため、朝鮮人による領土侵犯を許し、通貨スワップという名称で日本人を煙に巻いた資金援助を行い、犯罪を犯しても実名で報道を行わず、日本人であることが罪悪でありその罪を償うためにも家畜のように「考えず」に働くことを強要され、そのことに何ら疑問を抱かない民族と成り果てた。
このような考えない日本人が、どれだけ発展しても精神体になることなど想像しようもないではないか。

日本がかく堕落した経緯を知るのに、非常にわかりやすい資料があった。

京都大学の学園祭スローガン一覧(京都大学公式)

1980年代から低俗化が始まり、1990年代後半からはもはやどこぞのAVのパクリタイトルの方がマシ、という感じになってくる。
これを先に挙げた女性専用車両と重ねると1980年代末から1990年代にかけて女性団体の専用車両導入の動きが出始め、2000年に試験導入が始まっている。
自殺率を見ると、1990年から各年代の自殺率が上昇し始める。

社会的に見れば、1985年のプラザ合意から1986年に始まったバブル経済が1991年2月まで熱狂的な盛り上がりを見せており、高度経済成長期に続く2度目の日本変革の時代であったろう。
このバブル期に、日本人は決定的に精神を捨ててしまった。或いは考えることをやめてしまった。高度経済成長期には見てみぬふりはしたが、考えることをやめた訳ではなかったが、バブル期には完全に思考停止してしまったのだ。
1986年を以って、日本の終焉の始まりと言って良いだろう。
そこから2012年、ほぼ四半世紀が経過したが日本の思考停止は下げ止まりはおろか現状維持すらできず、悪化している。日本人のあらゆる頭脳が至るところで考えることを放棄し始めており、面的にも年代的にも更なる拡大を見せている。

景気循環におけるジュグラーの波が20年周期であり、これは家などの不動産買い替えによるものを中心に考えられているが、親から子へ世代交代する時期でもあると言われている。このことも少なからず影響していよう。

バブル経済・世代交代、これらがすべてうまく回らなかったのが、1992年から2012年までの日本なのだ。
20年という世代交代期を経て4年、何も変わっていないどころか悪化してすらいるのだから、少子高齢化を含む、非思考的民族に堕した日本を変えよう、改善しようという努力がいかに徒労であるかわかろうと言うものだ。

そして日本が既に終わった国家であり、国としての体裁を保てなくなった国で生きていくためには、せめて自分だけでも自力で救済しなければ、と人々が思うのもまた、当然の流れだ。
自己保身、排他、利己的な考えは更に加速し、崩壊は既に見えるところにまで来ている。




本当に、日本は終わってしまうのだろうか?
解決策はある。
回帰することだ。
そう、少なくとも江戸時代にまで。
自分のことだけを考えていては何ひとつうまくいかない、考えて行動しなければ国家どころか自分の将来すら危うい、そんな社会にすれば国家崩壊は免れ得るかもしれない。

そんなことはどだい、無理な話ではあるけれども。